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わごいちの作り方⑮屋号変更前編「心斎橋たんりき」での修行

 わごいちにとって大きな節目となった2007年。初出版、初弟子に続く大きな出来事は屋号変更でした。今回はその前編です。

 

 私が整体を習った櫻井寛先生が東京に移転されることになり、先生が主宰していた「丹力治療研究所」を「心斎橋たんりき」と改名して引き継ぐことになりました。。丹力とは「丹田(おなか)の力」を意味します。 ひょんなご縁で櫻井先生に出会い、技術を習い、後を託され、私は丹力グループの一員(と言っても二人だけ)になったのです。

 

 基本的に私はアレンジというものを好みません。それが未塾な三級品ならば手を加え工夫を凝らし、なんとか二級品にまで高める努力も必要でしょうが、すでに一級品であるならばできるだけ忠実にその本質をつかもうと努力することが大切です。中途半端な人間が中途半端なアレンジを加えてダメにする(本人は気が付いていない)。そんな残念な例が音楽でも料理でも整体でもどんな世界でも溢れています。

 

 丹力はすでに一級品だと思いました。いまでもそう思います。内臓の癒着を解消する技、下垂を引き上げる技、全身の筋肉骨格を整え直す手技に足圧、さらにハート呼吸法。丹力の源流とも言える「新日本延命医学療法」から、限られた治療家に伝えられてきたその技術の深みに挑むには並大抵の覚悟と努力では足りず「いつになったらモノになるのか」と途方に暮れることしばしばでした。

 

幸いに私は輝かしい?!キャリアを捨ててこの世界に飛び込んできた覚悟がありました。幼稚園児の時から風雪、野犬の群れの中を走らされ鍛えられたウルトラど根性もありました(笑)。※詳しくしくはこちら→「屠殺場のウルトラコース

 

 いざ開業してみると日本各地から様々な不調が持ち込まれ、治るのかとプレッシャーをかけられる日々が続きました。今から思えば、技を究める環境が整っていたのです。なんとも幸運でした。

 

 これを幸運というべきか迷うところですが、とある人が櫻井先生にこう尋ねました。「後任の三宅先生は整体のセンスありますか?」と。すると先生は「無いですね」と一言。これは結構ショックを受けました。今でも覚えているくらいですから。でもこの一言がずっと胸に刺さっているから、私はひと時も慢心することなくここまで歩み続けられているのだと思います。これも一つの幸運です。

 

 「心斎橋たんりき」を開業してからの6年間は、私にとって基礎作りと応用発展とが同時進行で進んだような年月でした。なにしろ櫻井先生には「揉み方」「ほぐし方」を習ったものの「症状別施術法」は丹力にはなかったからです。あったのは基本型だけ。便秘の時はどう施術するか。生理痛は?椎間板ヘルニアは?頭痛は?膝痛は?それらすべての持ち込まれる症状、不調に対し、どう施術すればいいのか、その答えがありません。。いや世の中に答えがないから私のところにくるのです。答えがないなら自分で見つけるしかなかったのです。(つづく)

 

三宅弘晃

 

 

当時の写真。関西テレビ「痛快エブリデイ」に出演した時に施術を受けに来られた桂雀々さんと(2024年11月にお亡くなりになりました)
当時の写真。関西テレビ「痛快エブリデイ」に出演した時に施術を受けに来られた桂雀々さんと(2024年11月にお亡くなりになりました)