能登震災から1年が過ぎました。わごいちでは昨年8月に続く第2次義援金を渡すため、院長三宅が輪島に行ってきました。
とにかく顔の見える支援をしたい。行政の行き届かないところに元氣をおくりたい。
輪島につてがあるわけではありませんが、自分の足で歩いて、自分の目で見て、直接お話をして「この人なら」と託せる人に渡そうと思ったのです。
そんな行き当たりばったり、運任せ、風任せの義援金旅レポートをご覧ください。
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やりくりやっと作ったスケジュールの隙間。いくなら今日しかない!
天気と交通手段だけ確かめて、午後2時「えいや」と大阪駅からサンダーバードに飛び乗る。
途中、敦賀駅で北陸新幹線に乗り換え、大阪から約3時間で金沢市駅に到着。
ここからがちょっと大変。金沢駅から輪島までバスでさらに3時間。しかも1日5本くらいしか本数がない。
金沢駅に着いたのが午後5時過ぎ。輪島行きの最終バスが5時20分。ギリギリ間に合うかどうか。
しかし夜8時に輪島市についても宿がないかもしれない。翌朝冷たくなって消防のお世話になるのも不本意なので、ここは大人しく金沢駅近くのホテルに泊まることに。
ホテルで持参した義援金の集計をする。(きたない字ですいません)
・スカイ本棚・・・officeスカイで中古本セルフ販売しています。1冊300円、その収益を義援金に
・千照館・・・千照館道場生の皆さんからの義援金
・わごいち・・・わごいちのお客さんからの義援金
・ジャスミン・・・わごいちのお客さん。こんな大金なのに控えめな方で、ニックネームでいいと
計180,983円
能登への皆さんの想いが詰まっている。
翌朝1/14 6:00起床
天気予報は一日雨。途中から雪。
コンビニでレインコートと雨傘を買い、7時15分の始発バスで出発。
道路状況はどんなだろう。途中の家々はどんなだろう。
少し重い気持ちで初の能登半島へ。
途中バスの左手に海が見えてきた。
見ているだけで寒気走る北陸の冬の海。
空の右半分、今から向かう方向の雲が暗い。雲の暗さの影響か、バス車内は話し声一つなく、ただ黙々とタイヤが擦れる音とエンジン音だけが響き続けている。
金沢市街は「ここは地震の影響なかったの?」と思うほどの賑わいだったが、半島の奥に進むにつれ、だんだんビニールシートが目立ってくる。
山間部に入ると雪も積もっている。崩れかけた家が雪の中でなすすべなく耐えている。
解体作業中の家。ボランティアの方々が畳を運び出したり、作業員の方々が屋根に上って作業していたり。
雨の中での危険な作業。重労働。一生懸命働く人、ちゃんといてくれる。
道もあちこちツギハギ波打ちあれど、片側一車線ずつちゃんと走れる状態まで復旧されていた。
たしか震災からしばらくの間、まともに道が通ってなくて「ボランティアこないで」と言っていたね。今はひとまず大丈夫。そして道は本当に大事。
工場だろうか。おそろしい。そして痛々しい。
輪島に近づくにつれてひどく損壊した建屋や道路が増えてきた。
まもなく到着。
※輪島では一日ずっと歩きながら家々や街の写真を撮りましたが、被災された個人宅の写真は掲載を控えます。
バスの終着、輪島駅。
(写真を取り忘れたので輪島ふらっと訪夢さんのサイトより拝借)
さてどうやって義援金の渡し先を見つけようか。
ドラクエならまず「酒場で情報収集」が定番だが、見渡しても酒場はない。 じゃあ、と目の前にあった輪島市観光協会に飛び込む。
「大阪から義援金を持って来ました。地元密着で復興に尽力されている方に託したいのですが、お心当たりありませんか?」
と窓口で尋ねると、少々お待ちくださいと奥に。やがて帰ってきて「市役所宛ではどうでしょう」と。
「この義援金はできれば民間の、市井の中で奮闘する民間人の方に直接届けたいのです」
「ここは役所の出張所ですから、、、ちょっとわかりません。すいません」
「それはそうですね」と無茶なリクエストをお詫び。それでもしつこく「このあたりで地元の人たちがあつまる喫茶店やレストランはありますか?」と質問を変える。そこで情報を集めようという作戦である。
喫茶店ならこの並びにもありますよ。あと川向こうのワイプラザで朝市をやっていますから、そこはどうでしょう。
朝市!それだ!と思い、ワイプラザの場所を教えてもらう。とにかく人の集まる場所に行かなくては何も始まらない。
外はしとしと雨が降っている。リュックを錆びたコインロッカーに預け、大事な義援金は濡れないよう厳重にビニールでくるんでショルダーバッグの中に、上からレインコートを羽織り傘さして、いざ出発!
それにしても。。。
道はあちこちで割れたり、ゆがんだりしていた。街中どこもかしこもこんな感じ。暗くなると本当に危ないだろう。これらが全部直るまでにあと何年かかるだろう。
橋も土台のところが怪しい。他の橋もほとんど似たようなものだった。
この上を人が歩き、車やトラックが渡っていく。東京や大阪でこんな橋があれば即座に通行止めにするに違いない。
でも危なくても輪島の復興にこの橋は必要なのだ。止めるわけにはいかないのだ。
橋の歩道はこんな感じ。震災から1年間、ずっとこのままなんだね。
歩いているので寒さは気にならないが、スマホを持つ手は雨風に随分冷やされる。でも撮らなくては。
徒歩15分ほどでワイプラザに到着。
大型ホームセンターと大型スーパーの間のホールに「輪島朝市」のお店が軒を連ねている。海産物が多い。そしてやっぱり輪島塗のお店もいくつも。
こちら気になったお店。店名がすごい。
店主の坂さんと。
キャリア40年の輪島塗職人。自分の手で木を削り、漆を塗って製品にする。それを自分の手で売る。一本気な職人さん。
これは素晴らしいなと坂さんオリジナルの漆塗りわっぱ弁当を妻に、お猪口を自分の土産に買った。
お代を払い、ここからが本題。「実は輪島の皆さんに義援金を持ってきたのですが、こちらの朝市で使っていただきたいなと思いまして」と坂さんに話すと、「えっ?」と少しびっくりされて「ありがとうございます」と。
坂さんに輪島朝市の組合長さんを紹介してもらった。
坂さんと私の間の方が、輪島朝市の組合長 冨水長毅さん。手の形は「能登マーク」。能登半島の形らしい。
元旦の地震で、多くの組合員は自宅にいて難を逃れたそう。しかし市場は揺れて崩れ、さらに火が出て全焼(後半の写真をご覧ください)。
以後各地で出張朝市をしながらなんとか活動を続け、今はこのワイプラザの中を借り、仮住まいとは言えようやく居場所を確保できたとのこと。
しかしまだ多くの組合員が避難所などで暮らしていたり、能登を出た人たちもいたりで、震災前の3分の1ほどの規模になっているそう。
冨水さんは、震災後各地の災害を受けた商店街などを回り、どうやったら輪島朝市が再び復活できるのかを考えながら走り続けられている。
どの義援金を渡そうか。少し考えて千照館から預かった義援金を託すことにした。
人の役に立つために丹足を習う道場生たちの気持ちがぴったりと合うと思ったし、千照館としても復興支援に動きだせればいいなと言う願いも込めて。
輪島朝市。強い気持ちと温かい心を持った人たちに感じた。今後も義援金も含め、継続的に我々ができる応援を考えていこうと思う。
ワイプラザのなかにあるフードコート。
近隣で働くボランティアや工事作業の人たちがお昼にここにきて、プラザ内のスーパーで買ったお弁当などを食べている。
電子レンジやお湯ポットのサービスが嬉しい。ワイプラザ自体も被災している(この白いシートなどで目隠ししてある)のに、朝市の場所を提供したり、こういう復興支援者たちへの配慮が有ったりして素晴らしいなと思った。
私も同じように、スーパーで地元の天然ブリのお造りとご飯を買ってブリ丼に。
なにげに今回の旅でこれが一番おいしかった。
腹ごしらえも済んだところで、次の義援金渡しの旅へ。
外は相変わらず冷たい雨が降っていた。
とても撮りきれないほど倒壊した家々を見て撮影しながら歩いていると、広いグラウンドが見えてきた。「輪島高校」と書いてある。
奥に土が盛ってあるから、きっと割れたグラウンドを整地し直し、いまから土をかぶせるんだろうかと思う。
元氣な若者の声が響くようになれば、街にも活気が出るんじゃないかな。
地図に足湯ってあったけど、ここか。
おおまかにグーグルマップを見て出発したけれど、私の旅は基本的に自由行動。ふいに出くわす出会いが面白い。
中をのぞくと湯はなかった。ここが復旧したらたくさんの人が癒されるだろうなあ。
さらに足湯の後に丹足をできたらすごくいいかもしれない、と今書きながらふと思った。
さらに歩みを進める。
こんなにも倒れて割れて。
とにかく最低限歩けるように、倒れた石を脇に寄せたまま時間がだけが経っている、そんな感じ。
前夜に候補の一つとしてあたりを付けておいた重蔵(じゅうぞう)神社。
能登半島は龍の形に似ているらしい。この重蔵神社はその龍の目の位置に当たるというところから龍にちなんだお守りや御朱印が有名だとか。
この写真は拝殿正面。大きな屋根を木を組んで支えてある。本当にぎりぎりの状態で建っている。
拝殿の横から撮影。こちらもつっかえ棒で支えている。本殿もかなり傷んでいる。これは修復は本当に大変なものになる。
全体的に崩れていて社務所もわからないし、誰もいらっしゃらなくてどうしようかと思っていたら、「只今休憩中ですので、こちらに連絡ください」と張り紙が。
休憩中に申し訳ないなと思いながら、雨に打たれて待つのもつらいので電話をすることに。「今行きます」とすぐに神職の方が出てきてくださった。
ここにはわごいちの義援金を託そうと思ったけれど、少し考え直す。
「3万4千円あまり、義援金持ってきたのですが、この昇龍守りを34個いただきます。端数はお賽銭箱にいれます。これも修復支援になりますよね」「もちろんです。ありがとうございます」
とのことで、お守りを34個買った。これをわごいちに持って帰り、義援金を出してくれた人たちに渡すことにしよう。また第3次義援金ではこれを渡して賛同者を募っていこう。氣持ちが循環していく、わごいちらしくていいなと思った。
さあ、もう一カ所いくぞ。
重蔵神社から正面の通りは「わいち通り」というらしい。
なんとも「わごいち」的に親近感がわくではないか、と思って撮った。地震に耐えたツバキ?サツキ?が頼もしい。
しかしすぐに現実が容赦なくのしかかる。どんな想い出が、どんな痛みがこの中にこもっているんだろうか。
わいち通りを抜けて右折すると海辺に。どうもこの辺りが特に被害が甚大な感じがする。(我が家はテレビがないので、世間一般より情報に疎い)
この立て看板から背後を振り返ると↓このような光景が。
立て看板によるとちょうど輪島朝市があった地区になる。
かつては日本3大朝市といわれたところ。1000年の歴史があったとさえいわれるところ。こんなことがあっていいんだろうか。
先ほど出会った冨水さんや坂さんの顔を思い、跡地をみながら先へと進む。人は先へと進まなくてはならない。何が待っていようとも。
橋の先に最終目的地がある。
やはりここもか。絶句。
はじめてきた場所。でもご縁がないわけではない場所。
ここを本拠に活動されている輪島御神事太鼓の皆さんが毎夏大阪にこられる。わごいちの近くにある坐摩(いかすり)神社で御神事太鼓を奉納される。
昨夏、この方たちにわごいちの義援金第1弾を託したのだ。
今回輪島に来たのは、そのご縁を頼ってのこと。事前連絡もせず突然の訪問ではあるけれど、ご縁に任せようとおもってやってきた。
住吉神社さん。本来ならば立派な鳥居が迎えてくれる立派なお社。だが今は倒れて割れた石材が参道の両側に除けられている。
突き当りの木造りの拝殿の損壊は比較的軽微に思われた。
なぜ正面扉が少ししかひらいていないのだろう?と思ったが、中にご神体が安置されているのをみて合点がいったような気がした。ご本殿が崩れこちらに移動されているのだろう。
まずofficeスカイから義援金1,800円をお賽銭箱に入れる。
さて、問題はジャスミンさんからの10万円だ。ここに託すのがよいか。誰もいない境内で思案に暮れる。
するとふと貼り紙が目に入る。
書き物って怖いと思う。書き手の人となりが良く表れるから。この貼り紙を読んで、やっぱりこちらで間違いないなと思った。
お賽銭箱に10万円入りの封筒を入れる。封筒に事情をかいた手紙を入れた。賽銭泥棒にあいませんように願いながら。
そして手を合わせた時、ふと気が付いた。ホームページから神社に電話をすればいいんじゃないか!(どうして気が付かなかったんだろう)
電話をする。どなたかが出られて、すぐ横の社務所にいるという。電話をかけながら玄関から出てこられたのは住吉神社の宮司様だった。
「はじめまして、大阪から来ました」うんぬんかんぬん・・・・とご挨拶をすると、
「さっきまで近くの公民館の神棚を引き上げにいって不在にしておりまして失礼しました」と宮司さん。
玄関の中に大きな箱があった。伊勢神宮から送られてきた神棚が入っているそう。住吉神社さんでは、被災した家々の神棚を引き上げ、避難所暮らしの人たちにこの新しい神棚を配っているという。
この先の見えない不安の中で、地元の神社の神棚があればどれだけ心強いだろう。貼り紙の通りの活動をされている。神社自体も激しく傷んでいるのに。
「本殿を直すのに数億円かかると京都の業者に言われました。とても無理だと石川の業者に相談したらかなり安くしてくれるそうで、でもその費用もまだこれからなんとかしていくしかありません」
と宮司さん。急な訪問であったのにさまざまな状況をはなしてくださり、ここにもまた前を向いていくしかないと覚悟を決めて働く人がいるなと、かえって私が元氣をもらった。
被害を恨み嘆くだけの人もいるだろう。とにかく自分のことだけ精一杯な人もいるだろう。でもこの宮司さんや冨水さんのように、自分だけじゃなく周りも一緒になって前に進もうとする人もいる。こういう人たちが一人でも多くいる地域はきっと強いだろう。
こういう信頼できる方たちに義援金を託せて、私たちは本当に幸せ者だと思うのです。
なんとか全ての義援金を、ちゃんと顔を見て話をして、納得の相手さんに渡すことができました。元氣を届け、元氣をもらって帰ってきたのです。
これはきっとわごいちや千照館の皆さんへの、目に見えない力になると思います。
また第3次義援金を募ります。1円も無駄にせずちゃんと届けます。ぜひご参加ください。
わごいち 三宅弘晃
以下、帰りの能登鉄道の掲示から
「人」の字に見えて、いいなと。